海底歩行

こえびがだらだらどうでもいいことを書いちゃうブログ。

154年前のあなたへ

3ヵ月に一度は更新という目標は一体どこへいったのやら。

おひさしぶりです、こえびです。

すっかり寒くなりましたね。

すっかり寒くなるちょいと前に、こえびはお友達と京都に行ってまいりました。

新選組ゆかりの土地を巡るために。

 

歴史の授業で特に人気というか、先生たちの熱も入るのが「戦国時代」と「幕末」なんじゃないでしょうか。

ゲームやら漫画やらドラマやらといろんな作品の題材にもなりますし、歴史に詳しいわけではないこえびでもなんとなくの人物関係と事件はわかります。

特に有名な新選組、せっかく関西に住んでいるのだから巡ってみようじゃないかと、友人と気合いを入れて行ってきました。

 

 

歩くのは全然苦にならない2人なもので、京都駅スタート、三条まで完全に歩いて巡ってみました。なかなかにクレイジー。

今回訪れたのは油小路、西本願寺、島原大門、角屋、壬生寺、八木邸、前川邸、光縁寺、近江屋跡、古高俊太郎邸跡、池田屋跡、三条大橋

なかなかの距離でした。5時間くらい歩いた……その日はぐっすり眠れました。

 

今ではただの路地やコンビニになっているところが、血にまみれた暗殺現場だった時代があったというのがなんだかとっても不思議でした。

私たちは今、志半ばで悔しい思いをしながらその生涯を終えた誰かの死に場所で、ピースサインをつくって写真を撮っている。「○○の変」も「××の乱」も、起きた当時としては大事件だったというのに、何十年何百年と経った今の私たちにとっては「面白いできごと」なのが不思議ですね。

フィクションなんじゃないかとさえ思えていた事件も、今でも残っている刀傷に触れるとノンフィクションなんだなあと納得します。教科書の上のできごとでしかなかった事件や人物に、実際にその土地を歩いていると「生きて存在していた」のだと説得力を持たせる歴史探索。とっても楽しかったです。

 

 

今回特に印象に残ったのが、「角屋」こと「角屋もてなしの文化美術館」でした。

京都の花街・島原に現存する揚屋建築で、今はもう揚屋としての役目を終え重要文化財として公開されています。 2階建ての建物のうち1階のみ見学させてもらったんですが、1階の奥にある松の間から見えるお庭がすてきで、語彙力がないのでどう表現したらいいのかわからないのですが、本当に、ただじっと眺めてても飽きない趣深さのあるお庭でした。お茶室があって、横たわった龍のような形の松があって。

 

その松の間で少し建物や歴史についてお話を聞くことができたんですが、ここでとある歴史上の人物が暗殺される直前に宴会をしていたのだそう。

新選組初代局長、芹沢鴨です。

 

彼は暗殺される日の夜、この角屋での宴会に参加し、酒に酔って八木邸に帰り、そこで暗殺されたといわれています。

「殺される前に見た最後の景色が、この松の間の上座から見たお庭なのかもしれませんね」

ガイドの方がそうおっしゃったのがとても印象的です。

勿論、当日は雨だったという話もありますし、宴会を行っていたのは夜で、見え方も全然違っていたでしょう。松の間は大正時代に入ってから小火があり修復されたとはいえ少し造りが違うのだとか。お庭の松の木も枯れてしまい、今あるものは2代目だそうです。

 

それでも、154年前のこの場所にその人は座っていて、お庭を眺めてお酒を飲んだのです。

 

盃を片手に何を考えていたのでしょう。明るい未来を夢想したのでしょうか、それとも当時の情勢を憂いたのでしょうか。明日は何をしよう、何を食べよう、どこへ行き誰と会い、どんな話をしよう。当たり前の毎日が、数時間後ぷつりと終わるとも知れずに。

 

歴史は勝者がつくります。悪漢として語られることの多い芹沢鴨ですが、人間らしい弱い一面や優しい一面も、きっと確かにあったのでしょう。

彼が実際にどんな人だったかはわかりません。でも、154年の時を超えて、同じ場所に座り、同じ景色を見るという不思議な交流は、色々と考えるものも、感じるものもありました。

 

あなたは、生まれる時代が違い出会えなかったそのひとが、どんなひとだったと思いますか。

 

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生存報告

随分と久しぶりになってしまいました。
もう少し頻繁に、せめて月に一度は更新しようとしていたというのに、気が付けば一年もほったらかしになってしまっていた。
お久しぶりです、こえびは元気です。

社会人になり一年と少しが過ぎました。
この一年、色々とありまして、会社の問題に巻き込まれたり、板挟みになって人間関係に頭を抱えるというよくある壁にぶつかったり、なんやかんやあったんですが、今やっと職場を少し好きになれた気がして、そうしていろんなことにまた目を向ける余裕が出てきました。

 

私は文を書くのが好きだったんですね。
自分のことなのにすっかり忘れておりました。
本が好きで、本を読んで友達と感想を言い合ったり、自分ならこう書くのにと空想したり、ならば自分で書いてみようとたまに筆を手に取ったり、そういうことを細々と、趣味と言うか息抜き程度に、続けていきたかったんでした。
仕事に目がまわり、生活に必死になり、余裕を失ってた私に、とある友人がとある理由で「ちょっとこういう感じのネタを提供するからなんとなく文章書いてみてよ」と言ってくれたおかげで、思い出すことができました。
そうだ、私は何かを書いていきたかったんだな。

 

最近、久々に物語というものを書いたのですが(久々にといってもブランク一年ほど)、あれですね、表現や言葉が出てこない。頭の中の風景を文字に起こそうとするとき、適当だと思える言葉に出会えない。
それは私が継続出来なかったうえに才能が無いから、なんですが、それにしてもびっくりした。こんなに言葉を選ぶのが難しかったなんて。
それでもとっても楽しかったです。友人から提供されたネタで書いた、友人と私の為だけの物語。拙いものだけど喜んで読んでくれる人がいるのは本当に嬉しいですね。

久々にブログを更新しようとして、ここでも言葉選びに躓いてバックスペースキーを連打しまくってるんですが、やっぱりなんだか楽しい。
リハビリがてら、月に一度、は難しいとしても、三か月に一度は何か更新していきたいな、なんて。

恋、とは

 恋とは、甘くてふわふわしたものだと、勝手に思い込んでいた。

 こんなに辛くて苦しくて、ニガイものだと、まだ17才の私は知らなかったのだ。

 

 先生の長くて固い腕が私の背中に回されて、ためらいがちに引き寄せられる。乱暴だけど、怯えていて、どこか優しさを感じた。恋愛において優しさというものが存在するのかは知らないが。

 

「嫌がってくれ」

 

 私の肩に顔を埋めて、先生が低く呟いた。先生の声が近い。先生の跳ねた髪が頬に当たってくすぐったかった。

 

「嫌だって言ってくれ。情けないけど、そうじゃないとおれは、お前を離せない」

 

 苦しそうな声だった。先生をこんなに苦しめるのは一体誰なんだろうと悲しくなったが、それが私なのだと気付くと、なんとなく胸の奥がむずむずするような、不思議な気持ちになった。

 

「怖いんだよ、おれ、一回りも年下の女の子相手に、本気になってさ。しかも生徒だぞ、許されるわけがないんだよ。だから頼む、おれのこと」

「嫌じゃないです」

 

 思ったよりも自分は緊張していたらしい。声がふるえていて内心笑った。

 先生が顔を上げる。どうして、とでも言いたげな、泣きそうな顔だった。

 

「私は、先生が好きだから。だから嫌じゃないです。……嬉しいです」

 

 先生のワイシャツの裾を掴む。

 先生のこんな表情を、はじめて見た。困りきったような、苦しんでいるような、嬉しそうな。私は国語が苦手だから、この表情がどんな感情から生まれたものなのか、どう表現したらいいのかわからない。

 唇がふるえている。上手く紡げない言葉を絞り出した。

 

「私、先生が、すきです」

 

 大人の恋、というフレーズが頭に浮かんだ。しかし恋愛に大人も子供も関係ないだろうとぼんやり思う。

 恋とは、それがどんなものであっても、にがく、くるしく、ほんの少しだけで酔ってしまうような甘さを秘めている。

 

 先生の腕が強く私を抱いた。もうためらいは感じなかった。

 

 

**********

中学のときの同級生が、高校時代の担任と結婚すると聞いて。

灰と精霊

 森のどこかで木が倒れる音がした。大きな音だった。一つの文化が終わる音だった。私は、もう二度と動かない友を背負ったまま、煙を吸わないよう姿勢を低くする。どこからか放たれた火は集落全体に瞬く間に広まり、人々の血を舐めてますます赤く燃え上がった。夜中だというのに明るいこの森のなかで、住み慣れた家々はぶすぶすと音をたてながら黒い煙を吐き、炎とともに私たちに襲いかかる。急がねばならない。友の亡骸を背負いなおし、悲鳴と炎を潜り抜けて、私は集落の外れを目指す。妻を、迎えに行かなければ。


 もう随分と昔のはなしだ。別の集落と大きな争いがあって、多くの民が命を落としたとき、まだ幼かった私や妻、多くの人々が、亡骸から抜け出し空へと昇ってゆくたくさんの光を見た。争いが終わってから3日目の夜、積み重なって山のようになった亡骸を、順番に埋めているときだった。空中をふわふわと漂うその小さな光は、蛍のようにも見えたが、蛍のようなあたたかい、生命力にあふれた光ではなかった。ちらちらと降る雪のような、冷たい光。真っ暗な真夜中の森の中で、それはそれは美しい光景で、誰もが黙ってその光に見惚れていたのを覚えている。しばらく空中を漂っていた光たちは一斉に空高く舞い上がり、二度と降りては来なかった。
 それからこの地では、死者の亡骸は必ず死後3日経ってからではないと埋葬してはならないという決まりができた。死者は、3日目の夜、精霊になって空へ飛び立つ。


 集落の外れにぽつんと建っている小屋の奥で、妻は眠っている。小屋の入り口に友を寝かせ、ずらりと並んだ棺の蓋をひとつひとつ開けて回った。死後3日経って、あとは埋葬を待つだけの亡骸たちばかりだった。2日前に死んだばかりの妻はまだ精霊になれていない。今ここで亡骸を燃やしてしまえば、二度と精霊になれないだろう。なんとか妻と友の2人の亡骸を背負って、この森から離れなければならないというのに、火はもうすぐそこまで迫っている。逃げ場がない。
 最後の棺に手をかける。妻がそこにいた。冷たい体で、青い顔をして、こころなしか浮腫んでいるような気がする。しかしどんな姿になろうとも、そこにいるのは妻だった。間違いない、私の、大事な妻だ。

 頭上から大きな音がして、熱が私たちを包んだ。風にのって火が木から木へと移り、この小屋まで燃え移ったらしい。天井がすぐ近くに落ちてくる。炎に周囲を取り囲まれて、逃げ道をなくしてしまった。ああ、ここまでだ。風に煽られ、細かな灰が空へと一斉に舞い上がった。私は咳込みながらその光景に見惚れた。不思議と美しいと思えた。私は硬くなった妻の体を抱きかかえ語りかける。ほら、見てごらん。


「灰が精霊のようだ」



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大学生の頃、学祭用に執筆したSSでした。ファンタジーむずかしい。

新世界

新生活のゴタゴタでえらい久しぶりになりました。

こえびは生きております。

新居のインターネット環境がやっと整ったのでやっとパソコン触れます。さて何を書こうかな。近況かな。

 

実家で犬を飼い始めました。私が一人暮らしを始めた途端に。悔しいので週に1度、少なくとも2週に1度は帰省してます。帰りすぎ。

もともと犬を飼いたいという話はしていました。私はパグやフレンチブルドッグ、母はミニチュアダックスフント、父は柴犬が飼いたいとやいのやいの言ってたんですが、我が家にやってきたのはマルチーズ。なんででしょう。母が一目ぼれしたからです。

 

 

ということで、今回は犬のはなし。

 

我が家のマルチーズは生まれてからまだやっと5ヶ月になるかならないか。我が家に来るまでほとんど外に出たことのなかったこの子は、飼い始めて3日め、さあ散歩に連れていこうと玄関の三和土に下した瞬間にくんくんと鼻を鳴らして震え始めました。外が怖いのです。

 

初めて外に出た日のことを、あなたは覚えていますか。

私は覚えていません。もちろん覚えていません。母に抱かれてか父に抱かれてか、それとも乳母車に乗せられてか、覚えていませんがきっと初めて吸う外の空気の新鮮さに戸惑ったのでしょう。陽射しのまぶしさに目を細めたかもしれないし、雨粒が一体なんなのかわからずおどろいたかもしれない。今では当たり前の世界に、初めて触れたときの感動を、残念ながら覚えているひとはいないでしょう。

 

うちの犬は全部がほとんど初めてでした。とりあえず外が怖いなら少しずつ慣らそうと窓を開けていると、雨粒を不思議そうに見上げていました。家の前を通る車の速さに目を見開き、「オイ今の見たかよ超速かったぞ」みたいな顔で私を見上げてきます。抱っこして散歩に行けば、近所の植木の葉っぱのにおいをおそるおそる嗅ぎ、電車の音に驚き丸くなる。

小さな体いっぱいで感じる、初めてだらけの外の世界。

ビー玉みたいに丸い目には、世界はどう映ってるのでしょう。きらきらしてるんでしょうか、それとも怖い印象が強いのでしょうか。

 

普段我が家を走り回っているのに、外に出るといろんなものにまだまだ慣れてないので一気に大人しくなり、一歩踏み出すのにとても時間がかかります。これは小さな一歩ですが、この子にとってはとても大きな一歩なのでしょう……と、どこかで聞いた有名な言葉をお借りします。

この子にとって散歩は非日常。私にとっては当たり前の世界。当たり前の世界の新鮮さと感動を、子犬は教えてくれました。

 

 

と、壮大に語りましたが、乳歯から生え変わってないので歯がきもちわるいのかとにかく何でも齧りたがったり、玩具を与えても誰かの膝の上に座ってからじゃないと遊ばないくらい甘えん坊だったり、布団が大好きでぽふぽふと足音をたてながら掛布団の上を尻尾振り回してうろうろしたり、めちゃくちゃ可愛くて完全に親バカになっています。

もう少ししたらお手を教えたい。母はお手の応用でハイタッチにしようぜと勝手にはりきっています。

 

そんなこんなの近況でした。今回はこのへんで。

ゲームのはなし2

さて、先日の続きです。だから本のために作ったブログだってのに。でもいいんです、私の好きに語ります。

 

 

ワンダと巨像

先日ICO面白いよと言いましたが、同じ製作者ということでものすごく近い世界観を持ったゲームです。私は同じ世界線での話だと思ってます。

神々が眠る禁断の地に、一人の青年が足を踏み入れます。青年はある少女の亡骸を抱えていて、このいにしえの地に眠る“大いなる存在”なら、失われた命を蘇らせることができると信じてやって来たのでした。その“大いなる存在”は「この地に存在する巨像を全て討ち倒せば、少女を生き返らせることも不可能ではない」と青年に告げます。プレイヤーは、その青年を操り、少女を生きかえらせるために巨像を倒していきます。

ビジュアルがきれいとか、詳しいとこまで説明しきらないストーリーがまた好奇心を刺激するとか、愛馬めっちゃかわいいとかいろいろあるんですが、ゲームとしてはいたってシンプルなんですよ。ダンジョンが複数あって、その奥には必ずボスの巨像がいるから、そいつを一体ずつ順番に倒していくってだけなんです。巨像にはそれぞれ弱点があって、踏まれないように振り落とされないように上手く凹凸に掴まって巨像によじ登りながら、その弱点を剣でグサリ。体力や腕力を上げることはできるけど、レベルなんかは無い。とってもシンプル。

その巨像ってのが面白くてね、獣みたいな姿かたちで、めっちゃ暴れまわるんです。飛んだり泳いだり走ったりするんですよ。最初はおっかないのに慣れてくるとだんだんかわいく見えてくるんです。愛着もってしまうと倒したくなくってねー倒さなきゃクリアできないんですけど。

ここからほんの少し、ストーリーのネタバレ(50%考察)を。このゲーム、要は神様殺しの話なんだ、と私は思ってます。死人を甦らせるのは禁忌です。青年は、一人の少女の命を救うために、この地(ダンジョン)にひっそりと眠っていた神々をたくさん殺していくわけです。神殺しを行うことでなんやかんやとあるんですが、そこは物語のクライマックスなので流石に言うのはやめときます。ただ神殺しの代償は大きくて、巨像を一体一体倒していくごとに、青年がやつれて汚れていくんです。生気を失っていくというか。青年が最終的にどうなるかはここでは書きませんが、プレイしてて辛くなってくるんですよ、なんとなくどうなってしまうのか察しちゃって。でも禁忌を犯す代償なんでね。自然の摂理に反してるってわかってるんだけど、やっぱり大事なひとが死ねば生き返ってほしいと思っちゃうんだなぁ。

最後の巨像を倒すとき、なんかもうコントローラー握りしめながらちょっと泣いた記憶があります。なんで泣いたかわからないけど、なんか辛かったんです。ゲームのラスボス戦って緊張と高揚があるじゃないですか、このゲームはひたすら悲しかった。印象的です。

 

ピクミン』シリーズ

切ないCMソングが印象的ですね、ゲームキューブのソフトです。一応全部プレイしましたが、一番古い無印のやつ、というより初プレイが強烈に記憶に残ってます。

宇宙船で宇宙旅行を楽しんでいた主人公ですが、途中隕石と衝突してしまい謎の惑星に不時着します。なんとか生き延びた主人公が乗ってきた宇宙船を確認すると、どうやらパーツは空中でバラバラになってその惑星のいたるところに散らばってしまっているようです。自分の生命を維持してくれる機械には期限があり、タイムリミットの1か月後までになんとかパーツを回収して宇宙船を修理し、故郷へ戻らねばなりません。そんなときに、主人公はその惑星に生息する、不思議な生命体・ピクミンと出会うのでした。

初めてプレイした当初私は小学生でして、テレビCMで見た感じだと可愛らしいほのぼのとしたゲームなんだろうと思い込んでいました。が、実際プレイしてみるとそこにあるのは弱肉強食の自然界。勝手に裏切られた気分。

ピクミンをたくさん増やして収獲(?)して、宇宙船のパーツ回収を手伝ってもらう物語ですが、その惑星にはピクミン以外に可愛らしくも獰猛な生命体がたくさんいます。そいつらはピクミンが大好物でして、みんなで協力してやっつけられればいいのですが、一歩間違えるとピクミンたちはそいつらにムシャムシャと食べられてしまいます。ごくりと丸呑みしてくれりゃあいいのに、残念なことにお行儀よく咀嚼してそのムシャムシャという音が効果音としてあるんですね、そんでもって最期の瞬間のピクミンの悲しそうな鳴き声も。なかなかに辛い。

活動できる時間が一日のうち昼間だけで、日没になると夜行動物が恐ろしいので一旦空中に逃げるピクミンと主人公なんですが、日没までに基地に戻って来れなかったりする子がたまにいます。主人公からかなり離れた距離で作業していた子や、群れから離れてしまってぽつんと放心状態の子(迷子?)です。日没後、ピクミンたちと主人公が空へと飛び立った瞬間、その迷子状態だった子が慌てて画面隅から走ってくるんですよ、そんでもって後ろから忍び寄る大きな影、夜行動物。あと少しというところで仲間たちに手が届かず、バランスを崩して転んでしまい、後ろから追ってきた天敵にぱくりと食べられムシャムシャと噛み砕かれるピクミン……。初めてその光景を見たとき、コントローラー片手に「ア゛―――ッ!おかあさーん!ピクミンがああああああ」と半泣きで叫んだ記憶があります。トラウマです。自然界って厳しいんだなぁ、と教えてくれるゲームです。

 

 

また長くなってしまった。第3弾はあるのでしょうか、あるかもしれません。今日はこのへんで。

あなたは私の、愛しいけだもの

参加してる文芸サークル「ららら日和」が始動しましたので、ふんわりと文学のはなしを。そうそうこのためにこのブログを作ったのだ。がっつりオチまで書いちゃうよ。

 

 

江戸川乱歩の「芋虫」が好きです。って言うと「あ、そうなの? 意外」とよく言われます。なんででしょうね。若い女性が好みそうな雰囲気ではないからでしょうか。しかし若い女性が好みそうな話とはなんだろう、恋愛もの? ならばある意味芋虫も恋愛ものなんでしょうか。

 

戦時中。ある女の元に、出征していた夫が帰ってきます。しかし夫は両手両足を失い、聴覚と声も失っていました。意思伝達の方法として残っているのは、唯一傷つかなかった目(視覚)と、口に鉛筆を咥えさせ紙に文字を書かせる筆談のみ。そんな夫の介護をする妻は、周りに褒められて最初は誇らしく思うのですが、次第にその言葉が逆に彼女を苦しめていくのです。

というのも、妻には人には言いづらい性癖というか、加虐趣味があったわけです。夫婦の性的な欲求は衰えず、むしろ旺盛でした。日々繰り返される夫婦の営みの中で、妻は無抵抗な夫をいじめてやりたいと、まるで自らの性的欲求を満たす道具のように扱います。なので、周囲からの「貞節」「妻の鑑」などという褒め言葉に、責められているような気になる妻。

声を失った夫は喜怒哀楽を目でうったえてきます。夫のつぶらな両目に不思議な魅力を感じる妻ですが、ある時行為中に、夫の刺すような責めるような目に我慢ならなくなり、興奮で夫の目を潰してしまいます。

我に返った妻はすぐに夫の手当てを済ませ、泣きながら夫の胸に「ユルシテ」と指で書きます。健常な人間が見たくなり夫の上官の元へ走る妻ですが、帰ってみると夫がいません。部屋の柱に鉛筆で「ユルス」と書かれていたのを発見した妻は、慌てて探しに行った草むらで、じりじりともがくように前進する夫の姿を見つけます。夫は近くにあった古井戸に落ち、地の底から響いてきた鈍い水音が妻の耳に届いたとき、妻は“芋虫”が自分の重みで木の枝から落ちてしまう姿を幻に見たのでした。

 

「つっっっら!」というのが最初の感想でした。辛い。これは辛い。罪を許され介護から解放されても奥さんこれ幸せになれねぇよ。辛い。

この「芋虫」、「乱歩地獄」というオムニバス映画で映像化され、その他にも「キャタピラー」という映画の原案にもなってます。どちらも原作そのまま、ではないのですが、原作とは違うアプローチというか、様々な解釈が見えて面白いです。芸術や美術的なはなしだったり、反戦的なメッセージだったり。どちらも営みの場面をしっかり撮ってらっしゃるので家族と見ることはオススメしません。家族とそういう場面見るの気恥ずかしいよね。漫画版は未見でして、いつかきちんと読みたいなぁと思ってます。

 

唯一きれいに残っていた目を潰され、音も光もない世界に閉じ込められた夫。健常な状態で残っているのはもう彼の精神のみなわけですが、それもそんな世界の中じゃ崩壊するのも時間の問題。おそらく彼は自分の「人間としての尊厳」を守るために自死を選びます。人間として、夫として、五体不満足の自分が妻に唯一してやれること、それが「ユルス」ということ。きっと夫の心が広いからとか妻を愛しているからとか、それだけじゃなくて、最後に“人間”として出来ることが「ユルス」こと、それだけだったんじゃないかなと思います。最後の最後に、人間として何かを成そうとしたのかな、と。

そんでもって妻が“悪”かと言うとそんなことはないような気もして。介護って、難しい問題ですよね。溜まっていくストレスを吐き出したくとも、介護しなきゃいけないんだからそんな時間もありゃしない。逃げ出せば非難されるのは目に見えてますしね、だって妻がいなきゃこの夫何もできないんだもの、仕方ないけどね。暗い気分のまま、イライラやモヤモヤが逃げ場なく膨らんでいくのは当然でしょうし、この妻の場合、それが性欲や加虐心として出てきたのかな、なんて。本当に難しいです。

 

映画「キャタピラー」では原案という扱いなので、小説や「乱歩地獄」とは違い追加された設定やエピソードが多数あります。なので以前から妻が夫に対して恨みを持っていたような描写もあったり。(妻が夫に石女とののしられ殴られるような場面があります)

ですが乱歩の小説でも、「乱歩地獄」でも「キャタピラー」でも、妻から夫への愛情が読める場面がきちんとあって(戦死でなくて良かったと安堵したり、最初は労わって甲斐甲斐しく世話したり、憐れんで心中を図ったり)、それが物語の結末をなんとも後味悪いものにしてくれます。しかしそれが魅力。

 

タイトルは、角川ホラー文庫のコピーです。没後50年の、特別装丁版のやつ。後味悪いし二度と触れたくないような気もするのに、ふとなんとなく、また読みたくなります。

長々だらだらと書きましたが今日はこのへんで。